凱歌をあげよ!
ドアを開けると、珈琲の香りが漂ってきた。
カウンターには今日もすでに、スカウトマンの原田が座っている。鳩麦さんがカウンターの向こう側で、ゆっくりと珈琲を淹れている。
開店10分前。
新聞をみていた原田が
「凱旋門賞ってのは、やっぱり日本の悲願ってことなんですかね」
と、ぼそりとつぶやく。
「きっとそうなのだろう。競馬を動かしてる連中の中心にいくほど、凱旋門賞というタイトルが欲しくてほしくて、たまらなくなるんだろう」
いつか世界一を。それは駆け出しのボクサーだろうと、インターハイ優勝の陸上選手だろうと、同じかもしれない。しかし。原田が言う。
「どうも日本の競馬界は、凱旋門賞というものにあまりにも固執している気がしますけどね」
凱旋門賞は戦間期にはじまった。世界中の馬をブローニュの森ちかくに集めて、古馬の世界一を決めようと、パリ市や実業家たちがはじめたのだ。
凱旋門賞挑戦にはリスクが伴う。日本の競馬とロンシャンの競馬は、競技としてあまりにも違う。それでも日本で最強の称号を得た馬や、凱旋門賞に適性があると思われる馬は、こぞってフランスの地での勝利を狙ってきた。今年はついに、その名の通り、日いづる国からスルーセブンシーズが挑戦する。
「日本はいまだにヨーロッパに「追いつけ追い越せ」なんだろうね」
「コンプレックスの塊みたいですね」
「日本自体が、近代というものに出遅れた追い込み馬だ」
数年前、彼女を外国からきた男に寝取られてしまったフリーターの「ヤス」を、ジャパンカップにつれていったことがある。
そのヤスには大学時代から付き合っていた彼女がいた。彼女は卒業と同時にグローバル展開する大手企業に勤めはじめたが、ヤスはまともに就職する気にもなれず、ぶらぶらしていた。
大学を卒業して最初の夏、イギリスからきたエリートサラリーマンのイケメンくんに彼女はあっという間に奪われてしまったのである。
ヤスがあまりにも落ち込んでいるので、日本馬が外国馬を蹴散らすのをみてやろう、と意気込んでジャパンカップをみにいったが、その年の開催には外国馬が一頭も出場していなかった。
それでもヤスは、「2番目に人気」の牡馬の単勝に、その月のバイト代をすべてつぎ込んだ。
レースはまとまった一団からの瞬発力勝負。ヤスが買った「2番人気の牡馬」は、エンジンがかかるのが遅く、早めに抜け出した牝馬と牡馬に追いつくことができず、3着だった。牝馬は向こう正面からじわじわと位置を上げていき、4角を抜けてトップに躍り出た。勝馬はその牝馬を悠々と内からするりとやってきて、さらりと身軽に差していったのだった。勝馬の名前はスワーヴリチャード。イギリスから来た騎手マーフィーが乗っていた。冠名に付された、英語圏の人名である「リチャード」はもともと、ゲルマン語で「力強い支配者」を意味する。
ヤスは完膚なきまでに従属の立場へと追いやられてしまった。
この時2番人気だったワグネリアンは、ダービーの栄光に追いすがるように一心に次のタイトルを追いかけつづけた。しかし彼の走りが、彼自身の栄光に追いつくことはなく、その後の彼は一度も馬券になることはなかった。翌年秋のジャパンカップでは先行策から18着と大敗した。そしてその冬、胆石が胆管に詰まってあっという間に死んでしまったのである。
悲壮なメロディが冬の栗東に寂しく響いた。ヤスの彼女だった女の子は最近、イギリスから来たその彼と結婚した。ヤスがこの《トリスタンとイゾルデ》物語の結末を知っているのかどうかは定かではない。最近では、ヤスがどこでどうしているのかも、誰も知らないのである。
「スプリンターズSはどうしますか」
と原田が尋ねてきた。
「荒れやすいレースだからね。あまり高望みをせず、穴狙いでいくよ」
セントウルステークスで2着の穴をあけ、今回も2番をひいたテイエムスパーダは、母父アドマイヤコジーンの血がこの舞台でも効くのではないかと期待する。小倉で1.05.8の千二最速レコードの持ち主は、前走からメンコを外したという。
素顔をさらして美少女はさらに快速になる。
ここで美少女戦士に期待を託してしまう私は、カワイイの国・日本の軟弱な男子なのだろうか。
追いかける馬ではなく、トップスピードで逃げていく美少女戦士が一番に過ぎていくのを見たいのだ。
(2023.10.01)